A Summer, and a Summer
2nd movement
wind
1
降り続いた雨が上がったのは明け方だった。
ぬかるんだ地面にはところどころに泥たまりがあり、雨上がりの湿っぽい土のにおいが、鼻に届いた。
「……」
額から汗が流れ落ちる。
ファインダー越しに眺めた街に人影はなく、さながら、眠っているようであった。
見定めるのは、納めるべき一瞬だけでいい。
シャッターを切るときに、手が震えなくなったのはいつからだろう。そんな成長に簡単とともに、一抹の淋しさも感じる。いまとなっては懐かしい思い出、記憶の隅の過客にすぎない。
撮り始めた時分は、これだというタイミングに巡り会っただけで常を失い、画面が揺れた。あの頃のような、純真な気持ちで対象を追いかけることは出来なくなった。
——なぜ?
目的が手段に入れ替わった。情熱を失ってしまった。一瞬が日常に成り下がってしまった。等々、言葉だけならいくらでも並べられる。
しかし、重要なのはそこではない。
無心で。そう、無心で——。
風景の一部にすらなったような心持ちでボタンを押せば、それなりの一葉は約束される。しかし、あくまである程度の出来であって、無二ですらない。
ひょっとすると、祈りに似ている。望んでは与えられない。
「悪くない」
自分の声なのに、他人のもののように聞こえる。
もう一枚くらいいけるだろうか、というところでやめておく。
物事にはタイミングというものがある。あれかこれかであって、あれもこれもではない。二者択一の積み重ねは、欲を出すとたいてい、うまくいかなくなる。
サッシを開ける音。
起居するのは、東京には珍しい二階建ての洋館だ。
こぢんまりではあるが、庭園もある。戦前建築の面目躍如といったところだろう。
デジタルカメラを構えているのは、二階のバルコニーだ。太陽を撮影するには、遮蔽物の角度から考慮しても、この空間しか適当ではない。
三脚を、片付けて袋に収納する。
撤収しようとしたところで、声をかけられた。
「また撮ってるの? 物好きなんだから」
声には少しだけあきれが混じっている。
「ん? ああ、おはよう」
振り返ってみれば、予想に違わぬ少女の姿があった。
学校指定の制服に身を包んで、腰に手をやっている。
目が覚めるくらいにあでやかな黒髪が、ほんの申し訳程度を残して、ショートカットにされていた。
化粧っ気のない顔は、白皙というには、いささか日焼けしすぎている。頭のてっぺんには、白いカチューシャが控えめにアクセントとなっている。
文目映(あやめえい)——幼なじみだ。
「ふわあ……」
映は、大きく口を開けた。
眠いのだろう。まだ早朝といっていい時間帯である。
目をこする。まなじりが退屈げに揺れる。
「……おはよ、高見(たかみ)」
声には不満が混ざる。
やんぬるかな、機嫌はあまりよくないようだ。
彼女は右手をポケットに突っ込んでいる。
「ゲームでもしてたの?」
話を全力でそらす。
映はそれなりのゲーマーだ。
それなりというのは、生活の一部を犠牲にしていないという意味でである。自宅には据え置きの家庭用ゲーム機があり、一ヶ月に一本程度の割合で、新しい一本を購入している。
一度だけ後ろから何をやっているか、のぞいてみたことがある。画面の入れ替わりが激しいアクションで、目が追いついていかず、酔いそうになった。FPS、というらしい。
「ごまかされないよ?」
映は胡乱げにこちらを見遣る。
精一杯の努力はむなしく空振りした。
「……ばれてるか」
映が不愉快なのには、心当たりがある。
彼女は写真撮影という行為自体を、快く思っていない。どんな対象に対しても一定の理解を示す映にしては、珍しい例外だった。
「別にいいけどね。高見が何してようと、こっちには関係ないんだし」
「……」
じっとりとした視線を、映は向けてくる。
映はこうやって、いつも外堀から埋めてくる。
惚れた弱みというやつで、それじゃあだまされておこう、当分の間は写真撮影を自粛しておこうかという気分になる。
「しばらく写真は控えるよ。それでいいだろ?」
論理のすり替えであることくらい、わかっている。
映が要求しているのは写真撮影そのものをやめることだ。しかし、その提案だけは飲めない。よって彼我の主張はいつも平行線をたどる。
「一度くらい、言うこと聞いてくれたっていいじゃない……」
「悪いな、こればかりは譲れないんだ」
「もー、ほんとにぃ」
映はあきれたようにため息をついた。皮肉なことに、それはまたしても映が、自らの主張を引っ込める合図でもあった。
相手のことを考えずにいられないのは彼女の美点でもあるが、同時に欠点でもある。
「高見ってバカだよね。熱中すると周りのこと見えなくなるでしょう。それとも、男ってみんなそうなの? サルと一緒じゃない」
「心外だな。俺はパースペクティブな視点を……」
「横文字を多用するの、バカに見えるからやめた方がいいよ」
「俺はバカじゃない」
「ああいえばこう言う。バカじゃなくてなんなのさ? いくら止めたって、耳貸してくれないくせに」
「さすが映。俺のこと、よくわかってる」
「あきらめてるって言うの! これは!」
映はこれ見よがしにため息をついた。
化粧っ気が薄いのは、中性的な格好をしたがるのと無縁ではないだろう。映が男性と勘違いされないのは、女性らしい声音と、ほっそりした脚線美のなせる技である。
「いらいらしてるだろ」
「そうさせてるのは高見だよ?」
映がカチューシャに手をやっているのは、あまりよくない兆候である。
「ははは、ごめん。その割に、いつも面倒見てくれるのな」
「はあ……。幼なじみだから、だよ?」
「じゃあ、もしそうじゃなかったら?」
「そうじゃなかったら……?」
映はしばらく考え込む仕草をする。
人は、どんな表情がいちばん魅力的なのだろう。
ごくまれに、そんな考えに浸りたくなるときがある。
決まって答えは出ない。おそらく解はいくつか存在していて、ひとつひとつは、すでに手に入っている。しかし、組み合わせてみればうまくいくとは限らない。折衷案は、得てして双方の欠点を引き継ぐからだ。
「結局、ほっとけないかも」
破顔。
女性には笑顔が一番似合う——そんなの幻想だ。それでも彼女の笑顔には何かある、と思わせるあたり、罪深い。
「いいやつだよ、おまえは」
「えへへ」
児戯に等しい、と侮るなかれ。
笑顔の価値は、作ろうと思った瞬間に失われてしまう。テレスコープの向こう側のような、現実感の失せた情景……貼り付けたような愛想笑いばかりみかけるようになったのは、一体いつからなのだろう。テレビの中、学舎での談笑、公園のベンチ……。自然体でいることは、案外難しい。
「そろそろ、朝食にしない?」
生まれたてのひよこみたいに、映はとてとてと近づいてくる。
彼女の身長は一六〇センチに少し足りない位なので、自然と見下ろすことになる。
「……?」
ふわりと、微香にくすぐられる。
「洒落てるな、フリージアか?」
「すごい! よくわかったね」
映は得意げに胸を張った。
セーラー服の襟元に目がいって、すぐそらす。
「そりゃあ……気づくだろ」
「ほんとに?」
「映のことなら、たいがいわかる」
「へえ」
映は、あまり感心していないように相づちを打った。
「生返事だな」
「いやあ……のろけられちゃったかなって」
「——っ!」
顔から、火が出たような錯覚に襲われる。
「そ、そういうことは、わざわざ言わなくていい」
「あ。高見、照れてるんだ」
水を得た魚のように、映はにやりとした。